第3話
どうして。
どうして和也の思い通りにならなければならないのか。私が大人しく寧々の尻拭いをするなどと、なぜ思えるのだろう。
葵は全身の震えが止まらなかった。言葉が喉の奥につかえ、声にならない。口の中に鉄の味が広がり、胸の奥でどす黒い感情が渦巻いていた。
「水原さん?」
アシスタントが言葉を切り、苛立たしげに急かしてきた。
「聞いていますか」
葵は目を閉じ、こみ上げる屈辱を無理やり飲み込んで、深く息を吸い込んだ。
「申し訳ありませんが、今回の古川さんの炎上対策については、他を当たってください」
「水原さん。今回、藤原さんが御社に声をかけたのは、そちらにとって身に余る光栄のはずですよ」
「社長があなたを守るために藤原さんを怒らせるか、それとも藤原さんのために一介の社員であるあなたを切り捨てるか。少し考えればわかるでしょう。自分の立場をわきまえて発言してください。後戻りできなくなりますよ」
「それに、藤原さんには恩があるはずでしょう」
アシスタントは容赦なく言い捨てて、一方的に通話を切った。
葵はスマホを握りしめた。毛穴という毛穴が粟立ち、奥歯を噛み締めても屈辱が全身を駆け巡る。堪えきれなくなった涙が、大粒の雫となって頬を伝い落ちた。
恩、だと?
馬鹿みたいに騙され、結婚してこれだけ経つのに、彼の心に別の女が住み着いていることすら気づかなかった。
必死に守り抜こうとした結婚生活は、ただの茶番。一番近くにいるはずの夫に、骨の髄まで利用され尽くしただけ。
そんな『恩』という名の重圧が、見えない鎖となって彼女の心を縛りつけ、拒絶の言葉すら奪っていく。
葵はスマホを胸元に押し当て、俯いたまま声を殺して泣き続けた。
その時、ふいにスマホが震えた。暗号化されたメッセージ。差出人のコードネームは『K』。
『M、量子チッププロジェクトの第二ラウンド資金が着金した。創設者会議は来週の水曜だ。いつまで正体を隠し続けるつもりだ?』
彼女は無表情のままメッセージを削除し、キャッシュを完全に消去した。
裏の世界において、彼女は世界トップクラスのハッカー『M』であり、三つのテクノロジー企業の影の創業者。そして数十ものAI特許を握る存在だった。
だが、和也や水原家の人間から見れば、彼女はいてもいなくてもいい妻であり、見捨てられた養女にすぎない。
その事実を隠し続けてきたのは、決して臆病だったからではない。ただ、彼を愛していたからだ。
しかし今、その愛は完全に死に絶えた。
彼女は短い返信を打ち込む。
『予定通り進めて。私の身元は、引き続きトップシークレットで』
藤原グループ本社。
「あの件はどうなっている」
執務デスクに座る和也が、書類からアシスタントへと視線を移した。氷の刃のように鋭い眼差しが、値踏みするように向けられる。
アシスタントは目に見えない重圧に冷や汗をかきながら、密かに胸中で毒づいた。
(よほど葵のことが目障りなんだな。名前を出すだけでこの不機嫌さだ。寧々さんがここにいれば、きっと甘い笑顔を見せるだろうに)
葵のせいで、なぜ自分がこんなとばっちりを受けなければならないのか。
そう思うと、アシスタントは葵への反感も手伝って、わざと大げさに報告した。
「水原さんは協力したくないようです。おそらく、古川さんに対して何か不満があるのではないかと」
「あいつに寧々をどうこう言う資格があるのか」
和也の顔に怒りが走り、射抜くような冷たい視線が飛んだ。
アシスタントは慌てて首をすくめ、口をつぐむ。
「あいつの会社にはお前が手を回せ。どんな手段を使ってもいい。今回の件には必ずあいつを引っ張り出せ」
「いつまでくだらない意地を張れるか、見せてもらおう」
和也は視線を書類に戻した。その瞳の奥には、底冷えするような冷酷さが漂っている。
「承知いたしました」
*
自分のデスクに戻っても、葵は心ここにあらずだった。
その時、胃の奥から鋭い痛みが神経を突き抜けた。胸の奥から強烈な吐き気がこみ上げ、彼女は椅子を蹴るように立ち上がると、足早にトイレへと駆け込んだ。
個室に飛び込み、便器を抱え込んで胃液を嘔吐する。
吐き切って荒い息を吐きながら視線を落とすと、汚物の中に点々と赤い血が混じっていた。
ペーパーを引き出して口元を拭うと、再び咳き込み、また血が滲む。
葵は力なく個室のドアに寄りかかり、自嘲するように弱々しく笑った。
スマホが鳴り、通話ボタンを押す。
「悟が帰国したの。今夜は歓迎の食事会をするから、あなたも戻ってきなさい。悟が彼女を連れてくるから、挨拶くらいはしておきなさいよ」
養母である水原奈央の、よそよそしい声が響いた。
奈央が自分を嫌っていることは、葵も痛いほどわかっている。
血の繋がらない養女であることに加え、過去のあの出来事があるからだ。
居候の身分は常に肩身が狭い。葵は表面上の体裁を取り繕い、感情を殺して答えた。
「わかりました」
電話の向こうからは、取ってつけたような事務的な言葉が二、三言返ってきただけで、すぐに通話は切られた。
実際のところ、葵が水原の実家に顔を出すことは滅多になかった。一つは、そもそも家族としての情が薄く、顔を合わせても気まずいだけだからだ。
そしてもう一つは、奈央が彼女を疎ましく思っているから。
すべては、悟が海外へ渡ったことが原因だった。
夕刻。
郊外の高級住宅街に佇む水原家の邸宅。タクシーを降り、見慣れたアプローチを抜けて玄関を入ると、さっそく家政婦に指示を出している奈央の姿が目に入った。
葵はそちらへ歩み寄り、愛想笑いを浮かべようとした矢先、頭から冷水を浴びせられた。
「葵、あなたその格好は何なの。礼儀というものを忘れたの」
葵の顔から笑顔が引きつって剥がれ落ちる。戸惑いながら尋ねた。
「え……何か、おかしかったですか」
奈央は葵を頭の先からつま先まで舐め回すように見下ろし、あからさまにため息をついた。
「藤原家でどんな暮らしをしているのか知らないけれど、お兄ちゃんの歓迎会にそんな安物で来るなんてね」
この服が……。
葵は俯き、自分が着ている手頃な価格のトレンチコートと、その下に着たシンプルなシャツとパンツを見下ろした。
名門である水原家は、何よりも体面と規律を重んじる。もともと葵に反感を抱いている奈央は、さらに冷ややかな視線を突き刺してきた。
「何? お兄ちゃんに恋人ができたからって、また同じ過ちを繰り返すつもり?」
胸の奥を鋭利な刃物で抉られたようだった。過去の傷を蒸し返され、葵は目頭を熱くしながら、かつての記憶へと引きずり込まれる。
水原家に引き取られたばかりの頃、奈央はまだ彼女に優しかった。
しかし、悟と一つ屋根の下で暮らすうち、葵は彼にどうしようもなく惹かれていった。
名目上の『兄』である彼に。
葵のひたむきなアプローチの末、やがて二人は恋に落ちた。
だが、その甘い時間は長くは続かなかった。二人が隠れて付き合っていることを、奈央に知られてしまったのだ。
奈央は「葵が悟をたぶらかした」と決めつけ、彼から離れるよう迫った。
葵は拒み、涙ながらに奈央へ懇願した。しかしその結末は、悟の突然の海外逃亡だった。別れの言葉すらない、一方的な破局。
それは今でも、葵の心に深く刻まれた消えない傷跡となっている。
「葵。あなたはもう人妻なのよ、これ以上みっともない真似はよしてちょうだい。今日はっきり言っておくけれど、あの時、留学を言い出したのは悟のほうなの。あの子はね、あなたから逃げたかったのよ」
息が詰まるほど胸が痛んだ。
何も言わずに去った彼には、きっと何か深い事情があるのだと信じ込もうとしていた。まさか、自分を厄介払いするためだったなんて。
滑稽すぎる。
どうりで、付き合っていた頃も、彼からの愛情をほとんど感じられなかったわけだ。
最初から、愛してなどいなかったのだろう。
その時、背後から低く落ち着いた声が響いた。
「母さん」
葵は足の裏から頭のてっぺんまで総毛立つような感覚に襲われ、その場に縫い付けられたように動けなくなった。
奈央が満面の笑みを浮かべて背後へ歩み寄る。葵も必死に平静を装い、ゆっくりと振り返った。
「悟。この子が、新しい彼女ね?」
奈央は弾んだ声で言い、その視線は悟の隣に立つ晴美へと真っ直ぐに向けられた。
悟は葵には目もくれず、小さく頷いて関係を肯定した。
晴美は少し恥ずかしそうに頬を染め、愛想よく奈央に挨拶する。
「おばさま……」
「ええ、いらっしゃい!」
奈央は目尻を下げ、嬉しそうに声を弾ませた。
まるで本当の母娘のように打ち解けた様子の二人。その後ろにぽつんと立つ葵は、完全に背景と化していた。
奈央があんなに心から笑う姿を、葵は見たことがない。少なくとも、自分に向けられたことは一度もなかった。
胸の奥に苦い感情が渦巻く。だが、この場において、自分はただの目立たない脇役にすぎない。
その時、悟がふと視線を上げ、葵の目を見据えて言った。
「義姉さんと呼べ」
